カメラバカ一代 第六回〜第十回の最近のブログ記事

第十話 カメラバカ一代「宮川一夫さんが教えてくれた、ムービーとスチルの原点は一緒であること。」

映画の同好会では女子部員にスチルを担当してもらった。愛機「オリンパス OM-1」を暫く預けることになった。
彼女は一眼レフを操るのも初めてなら、まして撮影現場を撮ることなど最初で最後だったに違いない。
しかし、彼女の「感性」が良かったのか?「カメラ」が良かったのか?「フィルム」が良かったのか?
実に素晴らしい「瞬間」をとらえてくれた。(当然感性ですよ!)
使ったフィルムはコダック社のTRY-X。モノクロフィルムの定番だった。感度はASA400。
ちょっと暗いところでも撮影できる。コントラストが素晴らしく、撮影現場の雰囲気がしっかり描写されていた。
若干粒子が粗いところも手伝ってか、生々しい感じが表現される大好きなフィルムだ。
その後彼女が一眼レフを自分で購入したのは言うまでもない。 OM-1かどうかは分からないが・・・

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※愛機OM-1+銘玉ZUIKO 24mm f2.8:プリズム交換したのでファインダーはキレイ 露出計はNG 革張りはカスタムメイド

商業映画のスチルは興行成績を左右するくらいに重要な役どころだ。
撮影されたスチルは宣伝用に活用され、その多くは映画を鑑賞した人々の記憶と重なって想い出の一コマになる。
巨匠黒澤明作品は「傑作スチル写真」の宝庫だった。
その全てに撮影現場の緊張感や雰囲気がストレートに伝わってくる。
そんな黒澤作品のスチル写真の中に一枚の写真を発見した。
撮影技師(ムービーカメラマン)の宮川一夫さんの笑顔だった。
多分「用心棒」の一コマだったと思う。自信に満ちあふれている素敵な笑顔だった。

宮川一夫さんは日本を代表する最高の撮影技師だった。
彼を超える撮影技師はもう現れないだろう。
明治41年京都市生まれ、稲垣浩、溝口健二、黒澤明、小津安二郎、市川崑など、
日本を代表し世界的に有名になった巨匠の作品を支えた撮影技師だった。
監督は優れた撮影技師と出会うことによって、お互いの素晴らしい才能が結実するのだなと思った。

その素晴らしさを言葉では上手く表現できないので、以下の作品を是非ご覧下さい。(他にもあるけど・・・・)

1)溝口健二監督の「雨月物語」ベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞作品
 ヨーロッパのヌーベルバーグに最も影響を与えた作品である。

2)稲垣浩監督の「無法松の一生」ベネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞
(受賞作品は三船俊郎でリメイクした)
 これを観て泣かない人は感情が欠落している人だ。大好きな作品。私は声を出して泣いた。
 黒澤映画と言えば三船だが、この作品の三船は神がかっている。凄い!

3)黒沢監督の「羅生門」ベネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞
 黒澤作品の中で、最も芸術性が高いとされる作品。夢の中を彷徨うような映像美だ。

また、宮川一夫さんは「銀残し」(スキップ・ブリーチとかブリーチ・バイパスとも言う)という
映像技法を世界で初めて活用したことでも有名。
「銀残し」はコントラストが増し、黒(暗部)が引き締まった独特の映像表現となる。
その後、映画でも写真でも活用されるようになった技法である。
市川崑監督の「おとうと」で「銀残し」は世界初登場する。
モーガン・フリーマン&ブラッド・ピット主演の「セブン」でも使われています。是非ご確認を・・・
1999年、宮川一夫さんは91歳で「映像の達人」としての人生に幕を下ろす。彼の死去は海外でも多く取り上げられた。

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※明石町「聖路加礼拝堂」棟。1932年竣工 /設計: アントニン・レーモンドら3名のチェコ人建築家によって設計。
 東京都選定歴史的建造物に選定されている。

宮川さんの存在を知ったことで、ムービーとスチルとは異なるようで「実は原点は一緒なんだ」と思った。
宮川さんが撮影した作品の殆どがモノクロだったが、
彼の描く映像には不思議と色彩(見た人に想像させる色のこと)を感じさせるには驚く。
私は写真が好きだったが、彼の映像表現を見て改めてムービーの素晴らしさ奥深さを知ってしまった。


「スチル(瞬間)の連続がムービー(動画)になること」を知ったのだ。
「線は点の集合であること」を悟った瞬間でもあった。
その後の私のカメラ人生(=カメラバカ一代)に影響を与えた偉大な二人の一人こそが
「撮影技師:宮川一夫さん」なのである。


不定期に続く・・・
Kazuo Habuka

最初にちょっとだけ相撲の感想を・・・

今年の夏場所は忘れたいくらいつまらなかった。盛り上がりは大関「魁皇」の「幕内通算1000勝達成」くらい。

14日目と千秋楽に突然「黄金の回し」で登場した「白鵬」のセンスの無さにも呆れたが

それよりも大関たちの醜態ぶりには「途方もなく寂しい気分」にさせられた。

収穫は「栃ノ心」「阿覧」「白馬」が健闘したことだ。でも全員外国人力士だ。「栃ノ心」は初の三役決定だ。

高齢の「魁皇」や「琴光喜」が引退するまでに日本人大関が誕生しないと、大関以上は全員外国人になる。

外国人力士を否定するのではなくて、彼らに対抗できる強い日本人力士が出てきて欲しいだけだ。

来場所「魁聖」(初)「益荒海」(再)などが十両に上がる。未完の大器「臥牙丸」がいよいよ幕内に上がってくる。

来場所は是非感動させてもらいたい。幕内全体で「白鵬」包囲網だ!

 

第九話 カメラバカ一代「毎日が映画に夢中だった。創る観る語るの映画三昧だった。」

「スチルカメラ」が一時期「ムービーカメラ」に代わっていた。映画が好きでたまらなくなったからだ。

愛用の8ミリカメラは「Nikon R10」だった。「FUJICA ZC1000」と並ぶ8ミリカメラ史上に輝く名機である。

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※8mmカメラの名機Nikon R10。レンズはNikon製。ボディはSANKYO製と聞いた。
信頼性のあるメカニズム。コダック・エクタクロームとの相性は最高だった。

大学2年の時に、有志たちと意気投合して自主映画制作の同好会を立ち上げた。

同好会の名前は「20th Century Dogs Production」だった。通称「ドッグズ」

数々の名作を生んだ20th Century Fox Production(20世紀フォックス)に因んだのは言うまでもない。

しかしネーミング・コンセプトは以外としっかりしていた。

「気高いキツネ」を追いかける「どう猛な犬たち」という、自主映画ならではのフェイクだ。

何で20世紀フォックスを目標にしたか?

それは当時若干30代で20世紀フォックスの社長となった「アラン・ラッド・Jr」を尊敬してのことだった。

「アラン・ラッド」と言えば、誰もが知っている1953年公開「シェーン」の主人公で一躍スターとなった俳優だ。

その息子である「アラン・ラッド・Jr」がいなかったら、かの「スターウォーズ」は誕生しなかったと言われている。

当時「スターウォーズ」は9つのエピソードで構成される一大スペクタクルとして発表されたが、

制作費が巨額である上、興行的にも難しいと判断され、様々な映画会社も制作実現には消極的だった。

しかし「アラン・ラッド・Jr」は当時では破格の制作費を投じて全9作品のオファーを下したと言われている。

(実際に制作されたのは全6作品であった)

それは同じ30代の映画会社のオーナーと

映画青年「ジョージ・ルーカス」の熱い「想い」と「才能」が融合したからだった。

作品同様、お互い「未来志向」だったのだ。

さらに「アラン・ラッド・Jr」をリスペクトする決定的とも言えるもうひとつの理由があった。

「チャーリーズ・エンジェル」を知っているだろうか?映画ではなくTV作品の方である。

3人の美女が活躍するセクシーな探偵アクション。

3人それぞれ人気はあったが、その中でも「ファラ・フォーセット」の人気はダントツだった。

フォクシーヘアーと言われたブロンドの長い髪、透き通るような青い目、そして全ての男たちを魅了する微笑み・・・

あまりの人気で「ファラ・フォーセット」は「チャーリーズ・エンジェル」を卒業することになった。

えっ!残念!!と思ったら

彼女の代わりに登場したのが「アラン・ラッド・Jr」の奥さんである「シェリル・ラッド」だった。

「ファラ・フォーセット」は長身でスリムな感じだったが、

「シェリル・ラッド」は品の良いコンパクトグラマーな感じで直ぐに「お気に入り」になった。

当時サントリーの「ブランデー、水で割ったら、アメリカン」というCMでは歌も歌っていたな。

こんな美人が奥さんでアメリカを代表する映画会社の社長だなんて「ずるいぞ!」

と言うわけで、こんな想いが「20th Century Dogs Production」を命名するに至ったエピソードである。

「スターウォーズ」は1977年エピソード4が公開、

2005年エピソード3で完結するまで、四半世紀を超える歴史的なシリーズ作品になった。

俺もいつかは日本の「アラン・ラッド・Jr」と呼ばれて、

「シェリル・ラッド」みたいな「べっぴんさん」を嫁さんにするぞ!と意気込んでいた。

【映画のウンチク】ー時代背景ー

1944年生まれのジョージ・ルーカスは南カリフォルニア大学(USC)卒業。

2歳若いスティーヴン・スピルバーグはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校中退。

共に学生時代から強く意識し合った仲だった。

お互い日本映画のB級「怪奇映画」のコレクターであることは有名。共に「黒澤明」を師と名言している。

「スターウォーズ」が公開された1977年、

S・スピルバーグは「未知との遭遇」を発表。映画の「新しい時代の夜明け」となった。

「サタデー・ナイト・フィーバー」(ジョン・トラボルタ主演)もこの年。

「タクシー・ドライバー」(ロバート・デ・ニーロ主演)

「ロッキー」(シルヴェスター・スタローン)は1976年に公開。

現在は海外の公開とほぼ同時期に日本でも公開されるが、この時代早くて半年後だった。

忘れもしない「スターウォーズ」の公開は1978年7月だった。私は「テアトル東京」で2時間以上並んで待って観た。

京橋の「テアトル東京」も今はない。シネマスコープ(シネスコ)上映館として貴重だった。残念!

この時代の若者はみんな「映画の虜」になるのは当たり前だった。今でもこの時代の映画が一番好きである。

不定期に続く・・・

Kazuo Habuka

第八話 カメラバカ一代「カメラとインダストリアル・デザインの関係」

高校2年の頃にはもっぱら、カメラは8ミリカメラにシフトしていた。動画に魅了されていた。

私の高校では「選択科目」という制度があって、私は「美術」を選んだ。

「美術」で勉強したかったのは(後で分かったことだが)インダストリアル・デザインだった。

所謂「工業(商業)デザイン」である。

グラフィック・ポスターの授業で、大好きなカメラのデザインに挑戦していたところ、

美術の先生から「君はインダストリアル・デザインに興味があるのか?」と聞かれた。

思わず「そうです。」と言ってしまった。多分商業デザインの事だろうと感じたから。

先生からイタリアやドイツの著名なインダストリアル・デザイナーの資料を貸してもらった。

バウハウスの作品は刺激的だったな。ポルシェも参画していた。ドイツらしい国家プロジェクトだった。

クルマのデザインには、イタリアのデザイナーが多かった。

日本のクルマにも関わった人が多いのにビックリした。

↓「ベルトーネ」はマツダのファミリアやルーチェを 

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↓「ジウジアーロ」はいすゞ117クーペのデザイン手がけたことで知られる。 

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※筆者所蔵のミニカーコレクションより


その中でも「ルイジ・コラーニ」というドイツの先鋭的なデザイナーの作品に惹かれた。

市販化されたクルマはなかったが、その驚くようなフォルムに圧倒された。

「自然界に直線はない」という、自然をモチーフにしたコンセプトが私の心を捉えた。

コラーニの人物像を説明すると一冊の本になってしまうほど深く広いので割愛する。

「コラーニライン」という公式ファンサイト(日本語)があるので是非ご覧下さい。

http://www.colani.jp/TheColaniLine/index/index.htm

食器〜クルマ〜ジェット機〜ロボットに至るまで、

遙か先を見つめた斬新且つ合理的なデザインは他のデザイナーを圧倒する彼独特の世界がある。

現在のカメラのフォルムが人間の手のひらを意識した「バイオフォルムデザイン」になったのは、

ルイジ・コラーニ氏の影響が強く働いたと言われている。

実際市販化された「キヤノンのT90」(1986発売)の元となったデザインコンセプトは

何と10年以上前に発表されていた。先生から借りた図版にデザインが載っていたのを記憶している

高校卒業したら美術大学に進もうと決意したのは、ルイジ・コラーニに出会ったからだ。

12071347_4b1c88ca4f3f8.jpgのサムネール画像

※私が愛用しているエアブラシもコラーニデザインである

グラフィック・ポスターの授業で描いていたカメラのデザインは、

二眼レフで有名だった「ローライ」が一眼レフを作ったらどんなカメラになるか?といった想定で取り組んだ。

カメラ屋で手に入れたカタログやカメラ雑誌の広告を参考に斬新なカメラを目指したが、

様々なカメラのデザインがミックスされた変わったカメラになってしまった。クラスでは評判は良かったが・・・

それより「日本の時計やカメラが世界一だ」という定説・常識が、

ポスター作成のために集めた資料を垣間見ることで完全に崩れてしまった。

「ライカ」「コンタックス」「ローライ」「ハッセルブラッド」など、

デザインも性能も極めて高い製品であり、日本のどの製品よりグレード感が満ち溢れていた。

実際欲しいとは思わなかったが、未知の世界を知ってしまった「興奮」と「怖さ」が同時に生まれた。

「プロフェッショナル」という言葉もこのころから知覚した。

そんな次元の異なる製品への関心がここから高まることとなる。「いつかはドイツ製品」を・・・

不定期に続く・・・

Kazuo Habuka

第七話 カメラバカ一代高校生活で夢中になったのは音楽と映画だった。」

写真はもっぱらキャンパス内のスナップ中心で、写真を撮るために何処かへ出かける暇はなかった。

「音楽」といっても「バンド活動」ではなく、「聴きまくる活動」とそれを支える「オーディオ」だった。

我々の世代はニューミュージックの全盛の時代で、

「はっぴーえんど」「荒井由実」「尾崎亜美」「シュガーベイブ」「センチメンタルシティロマンス」など

現在に至っても、このニューミュージックを超える日本の音楽ムーブメントは起きていない。神話である。

特に荒井由実のアルバム「ひこうき雲」は当時の女子高生のバイブルとなった。

「羽深くんは女の子の気持ちをわかっていない。」

「荒井由実のアルバムを聴いて勉強したら。」などと言われ、必死に聴いたものだった。

音楽やオーディオに関しては、現在「オーディオバカ一代」を構想中です。

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※往年の銘機:QUAD 22+QUAD II。1957年製造。つまり私と同世代、しかも現役です。

そちらでじっくりお伝えする予定です。お楽しみに!

僕にとって「映画」との出会いが人生を変えたかもしれない。そのくらい映画に心を奪われたのだ。

この時代映画史上に残る素晴らしい作品も多かった。

特にアメリカンニューシネマと(後になって呼ばれた)作品が好きだった。

イージーライダー、真夜中のカーボーイ、卒業、ある愛の詩など・・・(作品を語ると大変なので割愛します)

私は観るだけでは飽きたらず、文化祭で短編の映画を制作するまでに至った。

このときを境に、「スチル(写真)」ではなく「ムービー(映画)」の面白さを知ってしまう。

写真と違って、映画は撮るだけではなく、撮る前に「脚本」、撮った後に「編集」が必要だ。

学生の撮る映画は「8mmフィルム」を使ったホームムービーだったが、

この8mmフィルムは実際に映画で使われる16mmを半分にした「本格派」である。

富士フイルム社製のもあったが、コダック社製のエクタクローム・フィルムは水彩画のように透明感があった。

オリンパスOM-1がしばらく休眠することになったのである。

私の愛用カメラは8mmになった。

不定期に続く・・・

Kazuo Habuka

第六話 カメラバカ一代私立高校での青春がスタートした」

入ったクラブは写真部ではなく「バレーボール部」だった。

基本的に僕は元来体育会系だった。つまり身体には自信があったから。

この高校の付属中学と以前対戦したことがあった。いつもボロ負けだったけど・・・

そんな縁で、顔見知りの同輩や先輩もいたので割りと直ぐに決まった。

「M-1」が最初に活躍したのはクラスメイトと行った「奥多摩の遠足」だった。

僕は小さいときから旅行が大好きで、クラスでは「遠足委員」に立候補して選ばれた。

写真を撮ると友達が出来るパターンを高校でも実践したのだ。

自然にコミュニケーションが生まれるのが写真の凄いところだ。

学校にも持ち込んで、クラスメイトのスナップを撮りまくったな。

以外と女の子に評判だった。片思いのマドンナにもシャッターを押し続けた。

高校の卒業アルバムには、「M-1」で撮った高校生活の記憶がたくさん収められてている。

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しかし、購入して1年も経たないうちに「M-1」は不注意で井の頭公園の池に落としてしまった。

※地元吉祥寺ではでは井の頭公園で二人でボートに乗ると失恋するとか様々な因縁があるらしい・・・

デートではなかったがグループ交際というほのぼのとした関係で、

みんなでボートに乗って悪ふざけしている最中に誤って水没させてしまったのだ。

直ぐに引き上げたので最悪の状況は避けられた。修理可能ぎりぎりの水没だった。

ショックだったがみんなと別れて、直ぐにカメラ屋に持って行った。

買って1年未満だったので、保証期間中の有償修理扱いで再購入することになった。

再購入したら、やはり既に名称が「M-1」から「OM-1」に変更されていた。


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第五話で少しその変更について触れたが、

高価で優れた性能のドイツのレンジファインダー・カメラ・メーカーである

「ライカ」(ライツ社)からクレームが入ったからである。

ライカでは「M」が製品の記号になっているため、紛らわしいとのことだろう。

当時はM3、M2、M4、M5と言った具合に、確かに頭に「M」がついていたのだ。なんとM1もあった。

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※歴史的な名機、そして私の宝物 Leica M4 Black paint

「M」はMoreの頭文字だそうで

「より早く、簡単(容易)に、確実に」をコンセプトにしたと聞いた。実に深い・・・

「商標」というロイヤルティの存在を初めて知ったのもこの時からであった。

少しだけ「ライカ」が気になってきた。オリンパスを訴える会社って一体どんな会社だ?

「カメラと時計は日本が世界一」と確信していた私にとって、その常識を壊しかけない存在に見えてきた。

銀座に出掛けたとき、カメラ店の店頭でライカの値段を見てびっくりした。

ボディだけで最低200,000円以上もする。古い製品の方がもっと高かった。レンズも同じくらい高価だったのを覚えている。

ベンツやロールスロイスが高いのは知っていた。金額は分からなかったが、国産のクルマが何台も買えるぐらい高い。

当時「ライカ」はお金持ちのカメラの代名詞で、旅行先でお金がなくなったら、

その売ったお金で高級ホテルと飛行機代が出ると言われていた。

欲しいとは思わなかったが、「M-1」から「OM-1」の名称変更で、

「ライカ」という「生涯の魔物の存在」を知ることになる。

不定期に続く・・・

Kazuo Habuka

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