カメラバカ一代 第一回〜第五回の最近のブログ記事

第五話 カメラバカ一代「合格そしてM-1との出会い。両手に花の有頂天。」

目標だった私立高校に入学し、バイトの貯金に入学祝いを加えた軍資金で

とうとう憧れのオリンパス「M-1」を手に入れることになる。

内金をして預けていたカメラ店に取りに行った。

お店からも御祝いにと革のケースをプレゼントされた。最高に幸せだった。

「M-1」の名称は「ライカ」からの意匠のクレームで「OM-1」に変わるらしい。

僕の「M-1」は貴重になると店員が言っていた。

しかしそれから約30年後、この「ライカ」という魔物に振り回されるとは思ってもみなかった。

オリンパス「M-1」は空前の大ヒットカメラになっていた。はやる気持ちを抑えながら家に向かった。

そんな帰り道、幼いときの想い出が浮かんできた。

正月にお年玉をもらって、初詣に賑わう地元の神社に行った。いつもより高価なものが買えるからだ。

「ガイコツの操り人形」に惹かれた。

黒いベッチンの幕を背景にコミカルに躍るガイコツに魅了された。

実にスムーズに生きているかのような立ち振る舞い・・・

売っているオヤジの話術も手伝って、幼い僕はその不思議な世界の虜になった。

低く濁声で「坊や、買うのかい?」「面白いよ!」

買うしかなかった。お金を払ったら茶封筒に入った「ガイコツの操り人形」を手渡された。

「坊や、おうちに帰るまで開けちゃだめだよ。」「ガイコツが化けて出るから・・・」

そのときのオヤジの瞳が怖かった。すっかり信用して急いで帰った。

早速茶封筒から取り出すと全てが分かった。「騙された・・・くそっ!」

入っていたのは、薄っぺらい粗末な紙に書かれた「へたくそなガイコツの絵」と「タコ糸」だった。

デモンストレーションとは月とすっぽん、別物であった。生まれて初めて詐欺にあった。

泣いていた僕を見て、母は上手にガイコツを切り取り、加工してくれた。見事だった。

「ガイコツの操り人形」より母の愛情がとても嬉しかったな。

途中で開けると「カメラが化けて出るか・・・」と、懐かしい想い出と一緒に帰宅した。

手にした日は、一日中シャッターを押したり、レンズを交換したり、説明書を読んだりしていた。

努力して手に入れたのだから自慢したって良いのに・・・と思ったが、

両親に「絶対に友達に自慢しちゃダメだよ」と言われたので「じっと」堪える日が続いた。

オリンパス「M-1」のデビューは、近所の井の頭公園だった。そう「公園デビュー」である。

36枚撮りの白黒フィルムが一瞬にして無くなった。

嬉しさと興奮がミックスされ夢中でシャッターを押したのだ。

写真屋にフィルムを出した。今では同時プリントは45分位で仕上がるが、当時は出来るまで2日間ぐらいかかった。

早く撮った写真を見たい!と、空シャッターと、レンズ交換、説明書を読んだりしながら出来上がるのを待った。

2日経った。ドキドキしながら写真屋に向かった。

夢中でシャッターを切った景色が生き生きと撮れているではないか。それもシャープに鮮明に・・・

悦楽の境地だった。やっぱり写真はエクスタシーだった。

不定期に続く・・・

Kazuo Habuka

第四話 カメラバカ一代「猛暑の中、コンニャク屋での戦いが始まった」 

コンニャク屋の朝は早い。5:30起床。しかし、朝食が実に美味しかったのである。朝起きるのが楽しくなった。

今までコンニャクと言えば、おでんや弁当などに入っている煮物の脇役だった。

特に好きとか嫌いとかの産物ではない。

意識して食べたことなどなかったが、ここではコンニャクの種類も様々あり、

調理法によって味覚のバリエーションも豊富なことを知るようになる。

刺身コンニャクというのがあって、これにはまった。辛味噌や酢醤油などにつけて食べると、

コンニャクが「生もの」に見えてくる。

コンニャクの作り方を知った。

こんにゃく芋を粉砕して乾燥させた「粉」をお湯で溶かすのだ。

固める際に食用石灰を少し入れて混ぜ、冷めると固まるのだ。

この過程で「固さ」や「色」が決まる。

一般的に黒いコンニャクは「ヒジキ」「アラメ」「カジメ」を粉砕してまぶした物である。

シラタキは、コンニャクを細く抽出したものだ。

糸コンニャクは、シラタキより太く抽出したもので、全てコンニャクが主成分である。

シラタキを小さく巻いて輪ゴムでとめる作業が日課となった。

多分150グラムくらいの玉を作ったと記憶している。

最初の頃はひとつひとつ計量をしたが、慣れてきたら目分量で作業も早くなった。

一日1000個くらい作った。いつも指先がふやけていた。

コンニャク以外にも心太(トコロテン)作りも手伝った。

天草を水に浸し、ゴム長靴で踏みしめ汚れや天草以外のゴミを取り除く作業だった。

ゴミの中には、小さな蟹や貝がしばしば発見され面白かった。きれいになった天草は熱湯で溶かされる。

夏場なのでその熱湯で溶かす作業は大変だった。

暑さでフラフラになったが、大きな保冷庫があったのでみんなで入って涼んだ。

その中で、ポケットに入れてあるシワシワになったオリンパス「M-1」のカタログを見ながら食べた。

「手作りのトコロテン」の味は絶品だった。今でもトコロテンは好物である。

アルバイトも終わり、憧れのオリンパス「M-1」を購入できる資金が手に入った。

しかし、本当の本番は来年の2月だった。カメラ屋には事情を説明して、入試まで保管してもらうことにした。

それは、カメラが家にあったら勉強どころの騒ぎではないからだ。

ひとまず「一眼レフ熱」を封印することになったのである。

不定期につづく・・・

Kazuo Habuka

三話 カメラバカ一代「有名私立高校入学と憧れの一眼レフを手に入れる戦い」

中学3年生の時、オリンパス「M-1」と言う一眼レフカメラが発売されるニュースを知った。

世界最小最軽量の一眼レフカメラであると同時に操作性も優れていて「独創性」が随所にあった。

「これだっ!」と、完全に私の思春期のハートを射貫かれてしまった(SHOOTされた)。

熱病もとうとうピークに達してしまった。アイドルに夢中になる少年のようだった。欲・し・い・・・

オリンパス「M-1」は、世界的なカメラ・エンジニア「米谷美久」が手がけた社運を賭けた大プロジェクトだった。

「宇宙からバクテリアまで」というMシリーズ・コンセプトは今でも鮮明に覚えている。

顕微鏡(胃カメラ含む)から天体望遠鏡までの被写体を捉えるシステム設計は、

次代の光学分野の可能性を無限に拡げる「夢とロマン」に溢れていた。

OM-1.jpg

しかし「M-1」を手に入れるためには、ボディと交換レンズ合計で10万円くらいの予算が必要だった。

小遣いをこつこつ貯めた持ち金は2万円程度。目の前が暗くなり気が遠くなった。

「希望校に入学したら買ってくれる?」という方法も考えたが、100%確実ではないので断念した。

そこで、親戚の中野のコンニャク屋で夏休みの2ヶ月間アルバイトすることに決めた。

高校受験真っ盛りの時期だったので、住み込みでバイトと勉強を両立させることになった。

朝から夜までバイト、深夜は住み込みのバイト連中との受験勉強に精を出す計画だった。

有名私立高校合格とオリンパス「M-1」の両方を手に入れるための「地獄の試練」が始まった。

不定期につづく・・・

Kazuo Habuka

二話 カメラバカ一代「一眼レフカメラへの熱病が始まる・・・」

「写真部」の部員の多くは(当時では)高価な「一眼レフカメラ」を持っていた。

私が持っていたのは「リコー・オート・ハーフ」という、「バカ○ョン・カメラ」の代名詞だったから

「一眼レフカメラ」はプロっぽく、趣味性も高く羨ましく映った。

「リコー・オート・ハーフ」は、ゼンマイでフィルムを自動的に巻き取ることができる画期的なカメラでだった。

シャッターを押すと「ジーッ」と音がしてフィルムの一コマ一コマを巻き取る仕組みだ。

巻き取る力が弱くなったと感じたらゼンマイを巻き上げればOK。ピント調節も露出調整もいらない。

正に「バカ○ョン・カメラ」なのである。

「リコー・オート・ハーフ」の「ハーフ」の意味は、通常のカメラで使うフィルム1コマの面積の半分を使用する。

つまり36枚撮りなら、何と!72枚以上撮影ができる「超エコノミーなカメラ」だった。

当時はハーフ・カメラも結構多かった。

最近デジタルカメラになって再登場した「オリンパス・ペン」も昔はハーフサイズだった。

「オリンパス・ペン」は、ハーフサイズにも拘わらずレンズ交換が出来た優れものだった。凄いね。

さて「一眼レフカメラ」の技術や機能性を飛躍的に発展させたのは我が国ニッポンであることをご存じですか?

50年代の高度成長期、

旭光学工業(現在のペンタックス)、日本光学(現在のニコン)、キヤノン、オリンパスなどが競い合い、

ライカ(ドイツ)の「レンジファインダーカメラ」に対し、

「一眼レフカメラ」の領域では日本が世界をリードするまでに至っていた。

日本の一眼レフカメラは、従来より明るく正確なファインダーを実現したことだった。

それは日本のレンズ研磨技術=光学技術、

シャッタースピード制御のメカニズム、

正確な露出計測などが卓越していたからだ。

当時の少年にとって、日本のカメラや時計の技術は「世界で一番」だと大人たちから聞かされていた。

(しかし、必ずしも一番ではなかったことを成長するにつれ知ることになる。)

一眼レフは取り付けたレンズを通して得られる画像を直接認識してフィルムに投影できるメリットがある。

所謂、見たままが撮影できるのだ。

ボケの雰囲気や、望遠レンズでとらえた拡大された世界がファインダーを通じて目視(確認)できる。

対して「レンジファインダー式カメラ」は、一眼レフとは異なり、

フィルムに投影するレンズとピントを合わせるためのファインダが別々に存在する。

ピントの精度は高いが、一眼レフのように見たままが撮影できるダイレクト感はない。

ファインダーに示されるブライトフレームの枠の中に被写体を納める仕組みだ。

フレーミングで被写体を切り取る感じかな?

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※Leitz Hector 28mm f:6.3(1935年製)

「直感型が一眼レフ」で「想像型がレンジファインダー」と言った棲み分けかな?

私にとって一眼レフ最大の魅力は何と言っても「シャッターの音」であった。

機械式シャッターが奏でる「パシャッ!」という響きがたまらなかった。

レンズを通過した光が、カメラの中にある「ミラー」に反射し、

カメラの上部に位置するプリズムをくぐり抜けファインダーに届くのだ。

シャッターを押すとその「ミラー」が跳ね上がり元に戻る音が「パシャッ!」と発するのである。

目の前の獲物を全て奪い取る、まさに「SHOOTする」に相応しい効果音なのである。

「音」は人の想像力をかき立てる重要なファクターなのだ。

これをきっかけに「俺もいつかは一眼レフを・・・」という猛烈な熱病が始まった。

不定期につづく・・・

Kazuo Habuka

相撲専門のブログ化してきているので、不定期ではありますが「気まぐれ私小説」をスタートします。

私にとってカメラや写真が「単なる趣味」では終わらなくなってしまった、

その「青天井の魅力」と「底知れぬ魔力」の世界にみなさまを誘います。

 

一話 カメラバカ一代「カメラと写真との出会い」

写真を撮ることが興じて、結果的にカメラやレンズが増えてしまった。

結果的にと言うのは、カメラを「集めること」や

良いコンディションを保ち「売価(資産価値)を高める」のが目的ではない。

カメラや写真という「文化」を極めたい一心で40年近く付き合あうことになった。

カメラそして写真と巡り会ったことで「知り得た財産」はあまりにも大きい。
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※Leica IIIf Nr.628725 (1952〜53年製)

私が今までに取った写真一つ一つには、その時感じた「雰囲気」「印象」が見事に記憶されている。

それは私に才能があるからではない。写真にはそういったチカラがあるのだ。

頭の中の遙か遠くにしまい込んでいた当時のイメージが写真を通じて見事に蘇る(再生する)から不思議である。

その時のシャッターを押す瞬間の「躊躇い」や「決断」、時には「気合い」が写真に現れている。

カメラは使ってなんぼの製品だ。

「使ってなんぼ」とは、撮った写真そのものに「答え」があり「存在価値」を示してくれるからだ。

使わなくて眠らせていては、カメラに失礼である。使うことで「歓び」と「発見」が味わえるのだ。

カメラへの興味は、中学1年生の遠足にオヤジのカメラを借りて持って行った時から始まる。

遠足の後、校内に生徒たちが撮影した作品が模造紙に貼り付けられ廊下に掲示された。

私の写真は以外と人気があった。欲しい人は自分の名前を写真の下のメモ用紙に記入する仕組みだった。

人気があったのは多分、なるべく多くの生徒のスナップを撮ったのが良かったのかも知れない。

今まで会話もしたこともない生徒が、この写真が「縁」で友達になったりした。嬉しかった。

今でもスナップが好きだ。背景とか気にしすぎて「躊躇」するよりか、気が向くまま撮るのが自分らしい。

当時の私の中学校は、「課外クラブ」と「課内クラブ」があった。

課外クラブは通常の部活である。私はバレーボール部だった。

課内クラブは、授業の一環として扱われ、成績に反映されるのだ。とは言えみんな評価「5」だったと思う。

1年生の時「課内クラブ」が施行され、間髪を入れずに「相撲部」に入った。

女子部員がなんと!2人もいた。両方共にすっごく太っていたな。

美術の先生が相撲部の顧問を担当した。高校時代体育会の相撲部に在籍していた本格派だった。

しかし他のクラブと比べ人数は少なく、とても地味なクラブだったのを覚えている。

学校には土俵がなかったから、校庭の隅っこに白線を引いて土俵を作った。もちろん回しはつけなかった。

遠足の写真を誉められたこともあって2年生からは「写真部」に入ることとなった。

写真部に入って良かったと思ったのは、

自分で撮影したフィルムを現像し印画紙にプリントする過程を勉強できたことだ。

真っ白い印画紙にジワッと画像が浮かび上がってきた瞬間は今でも忘れられない。鳥肌が立った。

赤い暗室ランプが灯り、現像液や停止液(酢酸)の異臭が漂う中、

今まで体験したことのない、ある種のエクスタシー(快感)さえ感じた。

撮影という「芸術(創作)性」、

カメラという「メカニズム」、

現像という「化学反応」が三位一体化されたイリュージョンの世界に引き込まれてしまったのだ。

不定期につづく・・・

Kazuo Habuka

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