2009年10月アーカイブ

先日ダムについてお伝えしたが、何と!あの亀山ダムに行くことになった。

友人から「羽深さん釣りやるよね?」と聞かれ、とっさに「好きだった」と過去形で言ってしまった。

最近本当に行ってないなと改めて思った。部屋に埃だらけの竿が5本飾ってある。

リールの金属部分も錆びている。情熱が無くなると無用の産物化してくる。

友人の言葉に刺激され、また釣りを始めようと思ったのは良かった。

私の釣り歴は正に優柔不断、もう40年くらいになる。オーディオ、カメラより長い。

幼い時、家から近いので「善福寺公園」「武蔵関公園」「井の頭公園」などに足を運んでいた。

いわゆる「池釣り」だ。釣るのは、フナ、コイ、金魚の類。「練り餌さ」といって

餌の粉に水を加えて団子状にして針に取り付ける。時間が経つと無くなる(落ちる)。

シンプルな釣りだ。朝から夕方までのめり込み、バケツ一杯釣れた記憶がある。

竿なんて、オモチャ屋とか文房具店で売っている安い竿だ。無いときはその辺の枝に糸を結んで楽しんだ。

現在「善福寺公園」も「井の頭公園」も釣りは禁止だ。公園でキャッチボールなどの球技を禁止しているのと同じ。

何のための公園か?子供は分からないだろう。色々なことを学ぶのが公園なのに変だ。

さて、久々の釣りはゴルフのスタート前に挑戦することになった。

プレーするゴルフ場が亀山湖から6キロ程度しか離れていないので、このプランにみんなが賛成することに。

但し、朝5:30に現地集合とお馬鹿さんである。私は52歳になったばかりである。子供だ。

亀山湖は関東のバスフィッシングのメッカになっている。60センチクラスもゲットできる。

今までは、河口湖の「ハワイ」というショップ付近でバスフィッシングを楽しんだが、亀山湖はお初となる。

アクアラインが出来たお陰で千葉は本当に近くなった。

亀山湖周辺のボートショップに問い合わせ情報収集した。

朝3時間くらいの余興なので「陸っぱり」(ボートを使わない釣り)のポイントを教えてもらった。

亀山湖は起伏が激しい地形のため、「陸っぱり」ポイントは以外と少ない。

そこで、「笹公園」と呼ばれる場所で無謀なトライを敢行することになった。

さてさて釣果は?後日ご報告させていただきます。朝起きられますように・・・

 

 

三遊亭圓楽さんがお亡くなりなりました。ご冥福をお祈りします。76歳まだ若い残念。

生前親父と落語談議(放談かな?)を良くやった。親父に勝てるわけもなかったが・・・

ちょうど'60年代からテレビで三遊亭圓楽さんが登場し、人気を博していた。落語家がスターだった時代。

圓楽さんは都会的でハンサムだったので「星の王子様」と呼ばれ、自らも嬉しそうに自己紹介していた。

笑点「大喜利」の司会は有名だが、笑点の発案者はあの「立川談志」である。二人は仲が良かった。

談志さんもさぞ寂しい思いだろう。談志頑張れ!

親父は圓楽さんの噺がサゲ(落ち)が近づくと「ニヤニヤ」しながら話しているのを見て、

「噺が面白くないからこいつ自分で笑ってやがる!」とちゃかしてた。懐かしい。合掌。

Kazuo Habuka

教室に行くとやはり話題は日本シリーズ第3戦であった。

それぞれが展望を語る。夢を語る。不安も除かす。創造力が凄かった時代。
私はゲルマニウム・ラジオの存在を隠そうと思っていたが、
隠せる代物ではなかった。
しゃべちゃった・・・と言うより自慢してしまった。
「スゲー!」
「不良!」「お前はそんなやつだったのか!」とか
いろいろ言われたが野球中継をみんなで共有しようと言うことになり、
僕が聞いた内容をメモで伝えることになった。
授業中に野球中継をラジオで聴くことは停学処分相当である。
(喫煙より悪質かも)
しかも、メモを試験中に他人に渡す行為などはカンニングと同じである。
ジェームズ・ハブカはその使命を密かに速やかに実行することが任務だった。

title0
↑耳文化隆盛の時代。みんなが欲しがった「SONYスカイセンサーICF-5500」
僕の青春の宝物です。1972年製。完動品です。


※教室でのやり取りを全てお伝えすると一冊の本になりますので割愛します。

四時限目が終わり、休み時間にはクラスの野球狂たち
シリーズの試合経過を知っていた。
巨人劣勢。山田久志の快刀乱麻。完封ペース。
諦めはしないが、かなり不利である事実は事実・・・
やがて五時限目最後の授業が始まった。
試験中はイニング毎にメモを渡していたが
回は8回を過ぎメモはバッター毎の結果や経過を伝達することになり、
私はさらに忙しくなった。

授業が終わり、最終回ジャイアンツ最後の攻撃へと移る。
もみくちゃにされながら野球小僧は校庭のど真ん中に移動。
その中央にジェームズ・ハブカが位置することになる。
既にアウトカウントはひとつ減っていた。つまりワン・アウト、ランナーなし。
「ハブカ!バッター柴田はどうだ?」
「今日の柴田はどんな調子か?」
「巨人は負けるのか?」
教室ではぶつけることが出来なかった「生の感情」がガンガン飛び交う。
(気持ちは良く分かっていた)

秘密兵器に変身させたので、回りが騒々しい中、
ラジオの音も小さいので聞き取れないのだ。
「みんな静かにしてくれ!!」
自体を察知したのか急に静かになり、
1球毎のレポートに耳を傾けるようになった。

無声映画の活弁士の語りに観客が呼応するかのように、
私の一言一言でみなが息を呑む感じだ。
「柴田フォアボール」(私)
「ワー!」(みんな)
「高田に代打、柳田」(私)
「柳田がゲッツーじゃなきゃ、長嶋に回るぞ!」(みんな)

私が大声でしゃべると聞こえないので、首を縦に振ることしかできない。

ここで皆様には今日の試合の背景と経過を簡単にお伝えします。

相手はパリーグの覇者「阪急ブレーブス」
現在のメチャクチャ弱い「オリックス・ブルーウエーブ」の前身です。
当時はメチャクチャ強いチーム。投手は若手からベテランまで粒ぞろい。
バッター(野手)も攻・走・守が卓越した
パリーグを代表する選手たちで構成されていた。
少年(私も含め)の目から見ても「巨人より圧倒的に上」と感じていた。
名将:西本幸雄率いる「阪急ブレーブス」は、
1967年から69年までのパリーグ3連覇。
1971年から1972年は2連覇した名門チームだ。

同時期を支えた名プレーヤーは数知れず。
ミスターブレーブス:長池徳二(第1次阪急黄金時代の最強の4番打者)
世界の盗塁王:福本豊(年間104個の盗塁は今だに破られていない)
通算350勝の人間機関車:米田哲也(歴代最長の19年連続2桁勝利)
先輩サブマリン:足立光宏(ドカベンの里中智のモデルとなったのは有名)

新サブマリン:山田久志(通算284勝MVP3年連続)
巧打者:加藤秀司(通算2055安打、巨人の小笠原の師匠にあたる)・・・
と実力者揃いだ。
嘗て阪急の攻撃を象徴するエピソードがあった。
「ノーアウトで福本を塁に出せば必ず点が入る。福本を出したら終わりだ。」
福本が出塁すると、3球目以内にはセカンドに行ってしまう。
次のバッターがバントをするか、
凡退してもしなくても福本は必ずサードまで行く。
そして、外野フライか内野ゴロで福本が生還するということだ。
つまり、足が速いだけでなく、そつがない(えげつない)野球をするのだ。

福本は「二盗より三盗のほうが簡単だった」と話している。
セカンドのほうが離塁がしやすいのだ。
年間で100を超える盗塁は、三盗が無ければ達成しない。
南海ホークス時代の野村(捕手)が、
その「福本封じ」で考案したのがクイックモーションだった。

今の時代のようにセパに関係なく、
チームや選手の情報が浸透している時代ではないので
パリーグ自体「野武士の集団」とか「玄人の集まり」と言った
神秘的且つ恐怖感を抱いていたのです。
土橋正幸、尾崎行雄、張本勲、大杉勝男、白仁天、毒島章一が所属していた
「東映フライヤーズ」は
時代劇や任侠映画をヒットさせていた映画会社がオーナーだったからか
映画の悪役スター集団(強面揃い)の危ない雰囲気が漂っていた。

一戦目は西宮球場で行われ「巨人2:阪急1」で堀内が完投する。
二戦目は同じく西宮球場で行われ、「巨人6:阪急8」で阪急が打撃戦を制す。
山田は6回4失点と不甲斐ない結果だったが、阪急打線が爆発し逆転勝利した。


そして一勝一敗で迎えた第三戦(後楽園球場)である。
阪急ブレーブスを率いる名将西本監督は周囲の予想を覆し
何と!中一日で二戦に打たれた山田を先発(連投)させる奇襲に出たのだ!
この奇襲に応えるように、山田は素晴らしいピッチングで、
巨人打線を零点に抑えて最終回を迎えるのである。

マウンドには全く球威の衰えを感じさせない山田久志が立っていた。

スコアは1対0の僅差で阪急がリード。
9回裏、ワン・アウト、一塁(柴田)。
バッターは代打柳田。
柳田はライトフライに打ち取られ、
やがてバッターボックスにあの長嶋を迎えるのである。
山田が押さえれば、成長著しい若手投手が巨人打線を完封することなり
対戦成績が2勝1負とシリーズの流れを一気に変えることになる。

「あっ、柳田ライトフライ」(私)
「ゲッツーじゃなくて良かったな」(みんな)
「・・・」(私)
「次は長嶋だ!」(みんな)
「・・・」(私)
「長嶋がホームランでサヨナラだ!」(みんな)
ここまでは脳天気だった。
「・・・」(私)
この日の長嶋は山田に合わず打てる気がしなかった。
今日の山田を長嶋が打てそうもない感覚を伝えることなど出来ない。
「・・・」(私)
私が黙っているのを察知し、状況が伝わった。
「・・・」(みんな)

長嶋、山田のカーブに泳がされボテボテのゴロ・・・
「あっ!・・・」「うっ・・・」(私)
「えっ、ゲームセット?」「どうした?ハブカー!」(みんな)
「・・・」首を横に振りながら「ボテボテのヒット」(私)
「ランナーは?どうなってるんだ?」(みんな)
私は既にもう声が出なくなっていた。
異様な興奮状態の中、ラジオから聞こえる小さな音を聞くために
全神経を集中しすぎてヘロヘロになっていた。
蚊の鳴くような声で吐き出すのが精一杯だった。
「ツーアウト、一三塁。バッターは王」(私)
「王は打つよね!」(みんな)
「王は凡退しないよね!」(みんな)
「王は三振しないよね!」(みんな)
「試合終わらないよね!」(みんな)
悲観的な気持ちを排除しようと必死だったが、誰もが弱気で悲壮感が漂っていた。
この時、王がホームランを打つことを予感、または期待した人はいなかった。
私も含め、一三塁にランナーが残っている状況でも、
ジャイアンツが劣勢なことは分かっていた。
それはラジオから伝わる
「山田久志という投手の素晴らしさ」を認めていたからだった。
試合はぎりぎりの状態だった。そうバネが縮んでエネルギーが溜まっている、
そんな感じ。

そしてみんな急に静かになった。
これから起きる全てをみんなが受け入れる体制は整った。

カウント、ワン・ストライク、ワン・ボールからの3球目のストレートを
王がライトスタンドに打ち込んだ。
奇跡の逆転サヨナラ・スリーラン・ホームランであった。

言葉が出なかった。
信じられないことがイヤホンの向こう側で起きていた。
腰が抜けていた。
私の目からは涙が止めどもなく出ていたそうだ。
「ハブカァー!どうしたんだ!」(みんな)
と思いっきり頭をこづかれた。
私は残った力で振り絞るように話した。
「ホ・オ・ム・ラ・ン・・・」
私を二重三重に囲んだ少年たちは、
皆真っ赤な顔して涙でぐしょぐしょになり
二の腕で迸る涙をぬぐっていた。
言葉はなかった。
言葉なんていらなかった。
一生忘れない出来事が起きた。


今度の日本シリーズに期待したい。
どっちが勝つかではない。
一生忘れない名勝負を僕と野球を愛する人々に記憶させて欲しい。
私にとって1971年以来、一生忘れない名勝負を聴いていない。


Kazuo Habuka

私の誕生日は10月20日である。皇后陛下さまも10月20日にお生まれになった。

10月頃が「スポーツの秋」と呼ばれる由縁は
1964年10月10日に東京オリンピックが開会されたことを記念して
その日を「体育の日」と称し、国民の休日となったからである。
祝日法で「体育の日」は「スポーツに親しみ、健康な心身を培う」ことを
謳っている。
ハッピーマンデー制度によって「10月10日=休日」にならないため
休日を制定した本質が風化されつつあるのは嫌であり寂しい気がする。

さて1971年10月15日(金)に時間を戻そう。
私にとって「1971年は実に素晴らしい年」だったのだ。
加藤和彦と北山修の「あの素晴しい愛をもう一度」がヒットした。
反戦から始まった日本のフォークに「愛」が加わった気がした。
ジョン・レノンの「イマジン」が流れ、ベトナム戦争の時代をリセットさせた。

title0
阿久悠と筒美京平が作り上げ尾崎紀世彦が熱唱した「また逢う日まで」が
空前の大ヒット。
あのアイドル発掘番組「スター誕生」が放送開始した。

1971年は日本の歌謡史に燦然と輝くヒット曲のオンパレードだった。

加藤和彦と北山修「あの素晴しい愛をもう一度」
尾崎紀世彦「また逢う日まで」
小柳ルミ子「わたしの城下町」
五木ひろし「よこはま・たそがれ」
加藤登紀子「知床旅情」
森進一「おふくろさん」
南沙織「17才」
欧陽菲菲「雨の御堂筋」
平山三紀「真夏の出来事」
はしだのりひことクライマックス「花嫁」
ジローズ「戦争を知らない子供たち」
上條恒彦と六文銭「出発の歌」
シモンズ「恋人もいないのに」
森田健作「さらば涙と言おう」
美川憲一「おんなの朝」
にしきのあきら「空に太陽がある限り」
北原ミレイ「ざんげの値打ちもない」など、嘘みたいに凄い凄すぎる!

洋楽も凄過ぎる!
ジョン・レノンの「イマジン」
ポール・マッカートニー「アナザー・デイ」
ジョージ・ハリスン「マイ・スウィート・ロード」
マーヴィン・ゲイ「What's Going On」
キャロル・キング「イッツ・トゥ・レイト」
カーペンターズ「スパースター」
アイク&ティナ・ターナー「プラウド・メアリー」
ローリング・ストーンズ「ブラウン・シュガー」
シカゴ「ビギニングス」
ジェイムス・テイラー「You've Got A Friend 」
ジョン・デンヴァー「故郷へかえりたい」
ビー・ジーズ「小さな恋のメロディ」
アンディ・ウィリアムス「ある愛の詩」
レッド・ツェッペリン「移民の歌」
ヘレン・レディ「 私はイエスがわからない」
アダモ「雪が降る」
シルヴィ・ヴァルタン「あなたのとりこ」などなど、馬鹿みたいに凄い!

1971年は'70年代のベスト・アルバムが作れるほど、
人々に記憶させた歴史的な名曲の宝庫なのだ。

プロ野球でも生涯破られない記録と記憶が作られた。
江夏豊が、プロ野球オールスターゲームで9連続奪三振の記録を樹立した。

私は武蔵野市の公立中学に通う2年生であった。
この日私は五時限まで試験(中間試験)と授業があった。
来年私立高校受験を目指している身としては、
良い成績を残さなければと勉強にも熱が入っていた。
ところが、日本シリーズである。巨人のV7が懸かっているシリーズである。
「巨人・大鵬・卵焼き」世代にとって、
この年に限らず「日本シリーズは別格の存在」だった。
相撲好きでもある私は、この年憧れの横綱「大鵬」が32回の優勝を果たし引退。
一時代の終焉に一抹の寂しさも漂っていただけに、
関心事は「野球」に絞られていた。

だからといって野球を学校で見るのは難しい。教室で見るなんて全く不可能であった。
道徳的にも道義的にも御法度だが、そもそも「観る手段」が無かった。
今ならワンセグケータイで観る環境はあるけどね・・・
この時代、一般家庭には「ビデオレコーダー」の類も無かった。
「カセットテープ・レコーダー」がやっと普及し始め
「エア・チェック」と言うムーブメントが生まれた頃の話し。
まだ、「記録したものに頼る」のではなく、
「自らが記憶することが全て」の時代だった。

この年の日本シリーズは私にとって特別な感覚を覚えていた。
「阪急は強い!」という評判だった。山田久志投手の存在。
生意気そうだが実力もある。
山田はプロ3年目で、22勝をあげる活躍をしていた。
同じチームの先輩、米田哲也がこの年19勝。二人でなんと41勝だった。
V7を目指すジャイアンツにとって「鬼門となるシリーズ」と呼ばれていた。
試験どころの話しではない。学校すら行きたくない。
仮病でもしたい心境だった。
世の中で今日学校を休んでいる生徒は全て仮病だ!と思った。
しかし、僕には出来ない。

私は深夜放送のファンだった。耳文化隆盛の時代。受験生が全て虜になった。
オールナイト・ニッポン、パック・イン・ミュージック、
セイ・ヤングなど夢中になった。
この年の夏休みに流行のラジオ(SONY ICF-1100)を買って貰い、
さらにリスナー魂に火か付いた。
だからといって、こんな目立つラジオを学校に持って行くことは出来ない。
どうしよう・・・
当時、世の中には「ゲルマニウムラジオ」(鉱石ラジオとも呼ばれる)という
シンプルなラジオがあった。
電池もボリュームもない。周波数を合わせるだけの質素な構造。
手のひらに隠れる大きさである。
「これだーっ!」

私のゲルマニウムラジオは小学校の時に駄菓子屋で買ったもので、
カタチがロケットに見立ててあり、
ロケットの先端のアンテナを伸び縮みさせる仕組みであった。

title3
このアンテナを微妙に引っ張ったり縮めたりして
チューニングする仕掛けだった。
音はロケットのボディからイヤホンが繋がれていてそこから聞くのである。
感度を上げるため鰐口クリップがついたアース線があり、
金属に接触させると受信感度が良くなった。
ゲルマニウムラジオは電池不要、
スイッチも無いので音が出っぱなしのラジオである。
しまっておくときはアンテナをたたみ、
引き出しの奥に入れるのが通常であった。
新しいラジオを手に入れた私は、
この日本シリーズを「盗み聴く」作戦がなかったら
机の奥にしまっていたゲルマニウムラジオの存在すら
忘れ去っていたかも知れない。
title2
↑先日、ヤフオクで落札した中国製の「ロケットラジオ」
構造・仕様は同じだが、かなり「ちゃちな造り」である。

さて学校にゲルマニウムラジオを持って行くことに決めたが
どうやって回りに気づかれないように「盗み聴く」かが重要だった。
そもそも試験である。学校である。ラジオを聴くのである。それも日本シリーズを。
前の晩にいろいろトライした。鏡に向かって不自然でないか試行錯誤を繰り返した。
その結果、学生服の内ポケットにゲルマニウムラジオを入れチューニングを固定し
左手の袖にイヤホンのケーブルを通して手首にイヤホンの本体が出る作戦だった。
つまり、手品である。イリュージョンである。
不必要なときや、発覚の恐れがあるときは左手を伸ばすことで
自然にイヤホンを隠すことが出来るのである。
まさにジェームズボンド並の秘密兵器だ。

但し問題があった。
以外とゲルマニウムラジオは音が大きいのである。
電車などでヘッドホンから音が漏れるような感じ。
深夜にこの施策に取り組んだこともあるが、
バッチリ回りに聞こえてしまうくらいの音量なのである。
繰り返すがゲルマニウムラジオにはボリュームがないのである。困った・・・
ゲルマニウムラジオを分解し音量を調節するのは至難の業である。
そこで、イヤホン単体を分解し、外に音が漏れない対策を施した。
脱脂綿を隅々に詰め込むことだった。
気合い入れて綿を詰め込みすぎて、
何も聞こえなくなったので調節し完成したのである。ジャン!

これは秘密だ。俺はジェームズ・ボンドだ。と自らを鼓舞して学校に向かった。

つづく(その2へ)
Kazuo Habuka

幼いとき、今まで使っていたおもちゃが壊れてショックだった。何故動かないんだ!と呆然とした。

原因が分かっているときは、
壊した責任が自分にあるから悔しさで一杯になる。
分からないときは好奇心で原因を突き止める。
直せるかどうか分からないが分解した。
原因を突き止める行為が結果として状況をさらに悪化させたことも度々。
目覚まし時計を分解したとき、直すことは出来なかったが、
細かい歯車やゼンマイなどを目にして、時計を動かすの構造(メカ)を知った。

神社仏閣などの修復(修繕)に際して、歴代行われてきた痕跡が発見される。
修復時の日付、大工、寄付した人々の名前などが克明に刻まれている。
歴史を絶やさない、存在を風化さない当時の人々の情熱が修理に向けられたからだ。
今年の9月に放映された「世界遺産西本願寺10年大修復を追う」は素晴らしかった。
江戸時代に建てられて以来の大修復工事だった。当時の宮大工らの職人の技量・センスには驚かされた。
江戸の匠の技を平成の匠たちの技が時空を超えてぶつかり合ったドキュメントだった。

修理は難しい。どう修理するかが重要だ。
修理によって全く別のものになるのは修理ではないと思う。
また修理によって新しくなりすぎて、昔の面影が失われるのも悩ましい。
どの時点の状態に戻すかが修理のコンセプトになる。
私の修理は「壊れるちょっと前ぐらい」がBestと思っている。
そんなことをふと考えさせられた番組だった。

放火され消失した金閣寺。賛否両論あるが、再建されてあまりにも奇麗になりすぎた。
昔の写真はモノクロだが、比較すると別物に見えるくらい風情がなくなった。
私は失敗だと思う。全くなくなったから修理とは言えないが、
金閣寺には歴史や情緒といった目に見えないものがあったはずだ。
それらをどう受け継ぐかが成されていなかった。

僕はどうしても昔から使っていたものを手放すことが出来ない。
欲しかったときの情熱。使っていたときの想い出や温もり・・・
それは自分の痕跡、共に生きてきた証しを失いたくないからだと思う。
だから僕は感謝を込めて直しながらずっと使い続ける。

趣味のオーディオはもう何年やっているかな?多分35年くらい続いてる。
真空管、コンデンサー、抵抗、トランスなどをこまめに交換している。
取り付けは大体が半田付けです。半田をキレイにつけるのは難しい。

title0
↑交換した真空管・バイポーラ(FET)・スイッチです。
秋葉原に行っては小さな店の主人や店員に相談しながら部品を購入し修理した。

クルマもずいぶん修理してきた。
燃料系、電気系、シャーシ系、ボディの塗装まで出来ることは何でもやった。
ブレーキパット交換、ラジエター交換ぐらい朝飯前である。
6年前に22万キロを超えた時点で廃車になったが、このクルマも購入してから13年間乗った。
現在の愛車も既に16万キロを超えているが元気だ。つまり19年間で2台しか乗っていないことになる。
機械式フィルムカメラも30年以上使っているものもある。
一眼レフカメラを分解して「プリズム」も自分で交換したこともある。

title1
↑機械式カメラの名機:OLYMPUS OM-3Tiです。このカメラは1994年製。
現在何の遜色もなく見事に正確に機能しています。


修理によって直った時の「瞬間」は、直した本人でしか分からない悦楽の極地そのものだ。

修理には先ず、直そうとする「情熱」
次は、機能不全を見極める「メカ(科学)の知識」
最後は、それを確実に実行させるための「経験(勘)」だ。
これが伴えば元に戻る確立は高くなる。


部品がなければ自分で作ることだってある。
現在はインターネットで「部品」も「情報」も同じ狢の「輩」も探すことが簡単になった。
直すための「かなりマニアックな悩み」もネット上で共有出来るのには驚いたものだ。

高度成長を終え、今日本は修理が必要な時代に突入した。交換〜交換では済まされない。
新しいモノで補うことは、環境面や経済面を考えると厳しい時代になったと思う。
私にとってはウエルカムだ。直して使うのはエコロジーを超える価値があるからだ。
だからこそ「どんなコンセプトで修理するか?」が重要になる。

新しい技術、デフェクトスタンダード、情報インフラは大切だが、人の心を修理することはなかなか出来ない。


さあ、みんなで日本を修理しよう。 Kazuo Habuka

実は私、「ダム好き」のひとりである。訪れた近所にダムがあれば必ずといって足を運ぶ。

私が好きなのは「ロックフィルダム」である。

感単に言うと、岩石や土砂を積み上げて建設するダムのこと。

岐阜県の「徳山ダム」「御母衣ダム」、福井県の「九頭竜ダム」が代表的。

関東では群馬県の「奈良俣ダム」はコンパクトな造りだが私のお気に入りだ。

ダムは人類が生んだ機能的で素晴らしい構造物(体)である。

ダムにもデザインがある。構造もいろいろ。

もちろん、その目的も「治水」「利水」「土砂の流出防止」「発電」・・・など様々。

宇宙からも目視できる人工的な建造物として

「万里の長城」「エジプトのピラミッド」が挙げられるが、

ナイル川の「アスワン・ハイ・ダム」、パラナ川の「イタイプダム」などの巨大ダムも目視できる。

ダムに興味を持ったのは、幼いとき訪れた「黒部ダム」。

その迫力に圧倒されて夢中で写生した。

当時の人気を二分した俳優「三船俊郎」と「石原裕次郎」が

両者のプライドをぶつけ合って完成させた映画「黒部の太陽」の舞台である。

2002年のNHK紅白歌合戦では中島みゆきが黒部トンネルの中で

「地上の星/ヘッドライト・テールライト」を歌った。

ダムは川を堰き止める。だから人工湖ができる。

人工湖が出来るからそこにあった町や村、田畑もなくなり湖底に眠る。

絶滅危惧種の動植物に大きな影響を与える場合も多い。

当然周辺の風景も変わる。

黒部ダムの場合は観光地として人気スポットになった。

しかし、観光地として期待されたが的外れのダムも多い。

ダムが出来ることで周辺のインフラが整備される。

新しく道路もつくられる。展示館のような施設もつくられる。

ブラックバスをダムの人工湖に放流する輩がいて、

やがて繁殖し絶好のフィッシングポイントになったケースもある。

日本で合法的に放流(繁殖)されている自然湖は、

神奈川県の芦ノ湖、山梨県の河口湖、山中湖、西湖の4湖のみだ。

人工湖に関しては漁業組合が関わっていない場合、黙認されるケースが多い。

関東では「亀山湖」(亀山ダム)はバスフィッシングのメッカになっている。

ブラックバスのお陰?で賑わうダムもあるからやっかいだ。

ダムは反対。いや継続だ。と論議が白熱している。

賛成する人も反対する人も

もう一度ダムとは何か?を考えるには良いチャンスだ。

ダムを様々な角度から検討して必要とし計画推進しても、

ダム工事は完成するまでかなりの時間を要する。

つまり、10年経過すれば今回のように政権が変わることもある訳だ。

今話題の八ッ場ダムは計画時からかなり時間が経過している。

昭和40年代から実施計画調査や地元住民の生活再建案調整が始まった。

昭和61年に「八ッ場ダムの建設に関する基本計画」が決定し、

平成12年までの事業工期として策定されたが、

平成13年の第1回変更で工期が平成22年に延長された。

平成16年の第2回変更で建設目的に流水の機能維持が追加され、

総事業費が当初の2,110億円から4,600億円に増額修正された。

平成20年の第3回変更では建設目的に発電が追加された。

工期も平成27年に大幅に再延長された。

賛成か反対かで長期化する「問題山積みダム工事」の代名詞として

「八ッ場ダム」と「川辺川ダム」が挙げられる。

私は当事者でもなければ関係者でもないので、

賛成か反対かを述べる立場にはない。見守るだけだ。

「スクラップ&ビルド」という言葉があるが

まさにダム建設は生活環境・自然環境・歴史・文化・風土を破壊し

新しい価値をもたらす(創造する)計画であることに間違いない。

戦後の経済発展・国土開発に「スクラップ&ビルド」は必要だった。

しかし、重要なことはその計画によって、これまでの過去が「風化」されないことだ。

崖崩れや川が氾濫することなどの危険性を示唆してきた地名がなくなり風化し

災害が起きてからその歴史を知って驚くこともある。

「風化」には代償を払うことが多い。

「スクラップ&ビルド」から

「ストップ&シンク」といった発想で

本質もう一度見極める勇気と努力が必要な気がする。

ダム建設で消滅した村を題材に撮り続けたアマチュア写真家がいた。

増山たづ子さん(1917年- 2006年没)である。

岐阜県「徳山ダム」の建設反対運動に参画していたが

「どうせ国は反対しても戦争もやったしダムも必ずやる」

「反対するのは大河に蟻がさからうようなものだ」として

「徳山村がここにあったこと」を後世に伝えようと写真を撮り続けた人。

写真点数は8万枚を超えるといわれる。

まさに「風化」させない強い意志で

賛成反対とは違った視点で現実を対峙した人生には感銘する。

中止すればいくらムダになるとか、継続したらこんなにかかるとか

マスコミも同じ視点で取り上げ焚きつけているきらいもある。

お金だけの問題なのか?

もっと違った視点も加えて活発に論議して欲しい。

先日久々の巨大台風が日本を襲った。

伊勢湾台風とほぼ同じルートを北上した。幸い死者は少なかった。

ダムによる治水や護岸工事など、インフラ整備が進んだ成果である。

「想定外」の設定をすれば工事の規模や期間も大きくなる。

想定外に立ち向かうのは「正義感」としては理解できる。

しかし、人間は生き物で「運命」には逆らえない。

私は「想定外」に対しては、「運命」と思って逆らわず向き合う主義だ。

ダム開発は本当にそこに暮らす生命にとって運命なのか?問いたい。

増山たづ子さんはダム建設と向き合い

無我夢中で写真を撮ることで故郷を「風化」させないことが運命だった。

お隣中国では、三峡ダムと呼ばれる国家プロジェクトが進行している。

長江中流域の三峡一帯に建設しているの大型重力式コンクリートダム。

完成すれば、世界最大の水力発電ダムとなる。

※ダム工事はほぼ終了し今年完成の予定。

またひとつ宇宙から目視できる地球の資産が加わる。

これも地球の運命なのか?

こう考えると、私は単なる「ダム好き」ではなく

「ダム・ウォッチャー」に呼称を変えようと思う。

Kazuo Habuka

オリンピック招致の行へ

いよいよ今日深夜、2016年の開催地が決まる。

1964年東京オリンピックが開催されたとき、僕は小学校1年生だった。

今でもはっきり覚えている。自宅にカラーテレビがないので友達の家で開会式を観た。

航空自衛隊のブルーインパルスによる、紺碧の空に描いた「五輪の輪」が印象的だったな。

マラソンの応援で、学校の生徒全員が参加して小旗を振った。

オリンピック後の日本の経済発展は一気に高まり世界トップレベルに押し上げた。

お隣中国も2008年のオリンピックを契機に、本格的な国際化を加速させている。

先日の建国60周年式典での「大閲兵」は怖い気がするほど中国の威圧感をかいま見た。

やはり背景には各地で起きている学生を中心とした民主化の動き、

内(南)モンゴルやチベットなどの民族問題が自国に根強く存在するからだと思う。

僕が懸念しているのは、日本はオリンピックで何を訴えるか?が外向き過ぎること。

確かに各国の票を得るためにはしかたがないことであるが、

東京都民や国民に対して、「オリンピック開催の夢」をしっかり語れていない気がする。

オリンピックは、大人たちの大会ではない。

今の子供たちが大人になったときに、想い出として燦然と輝くものでなければならないのだ。

難しいと思うが、「オリンピックでどんな想い出をつくるか?」を見せて欲しかったな。

さて今日深夜は天命を待つしかない。

Kazuo Habuka

« 2009年9月 | メインページ | アーカイブ | 2009年11月 »

このアーカイブについて

このページには、2009年10月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2009年9月です。

次のアーカイブは2009年11月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。